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インサイドアジアでは、在中18年目の作家・谷崎光とアジアの精鋭インサイダーたちが”本当”をお伝えします。

天安門事件 6月3日、30年前にこれから事件の起こる天安門広場に立って考えたこと

 

2019年6月3日。

家から地下鉄にのり、天安門広場へ行ってきた。6月4日だと入場できない可能性があるし、事件が起こったのは3日深夜から4日未明だからである。

 

パスポートチェックと顔認証をうけて荷物検査の場所に入る。

カバンに入れていたスケジュール帳と日本語の文庫本を1ページづつめくってやけに厳格に調べられた。初めてである。

 

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2019年6月3日夜7時半。天安門広場は通常夜10時まで開いているが、この日は夜7時すぎの降旗式典が終わったら追い出された。

広場に入った。地方からの観光客が多い。その中にちらりほらりと、同じ「追悼組」らしい人々が混じっている。

 

一緒に並んで降旗の式典を見た。兵たちが旗を降ろす。

 

幼顔の兵士たちが警備している。ロボットのような表情で、人を殺せといわれたら殺すだろう。今も昔も兵になるのは農村の貧しい人々である。天安門事件は、泥水を飲んで育ち餓死同然でやっと飯にありついた当時の兵たちが、特権階級でもあった学生たちを、命令通りに水平掃射した事件とも言える。

 

しかし今はいわゆる私服のSPも20年のときより少ないし、平和な感じである。

(なーんだ、大したことない)と思って、ツイッターを開いた。工夫が幸いしてつながる。

 

ふと強い視線を感じて振り向くと、日焼けした屈強な私服警官が3人!、ぴったり後ろについて取り囲み、私の日本語ツイッターを覗き込んでいる。

左右を見た。他の人にはいない。

拘束は嫌なので諦めた。

その後も、式典が終わるまで彼らはずっとぴったり後ろにいた。

 

広場に来て、私は思ったより動揺していた。

中国は現在なお地域によって発展の差がある。広場には60年代の雰囲気の人から、70、80……、今の網紅(ネットインフルエンサー)的女子まで、その時代から連れてきたような人々がいる。

 

そこに兵が混じっている。私は自分がここで水平掃射されることを想像した。

夕暮れの空にこのエリア一体で殺された人々の霊魂が戻ってきて舞っている気がした。それはいまだ落ち着いてはいない。

 

広場は通常は夜22時まで開いている。が、式典が終わるとすぐ私達は広場から追い出された。

制服の集団で威圧して人々を広場から「清場(片付ける)」する姿に、反射的に怒りを感じた。

 

 

工場の生産は、

大丈夫です!

 

89年当時、若手社員だった私は、中国で民主化運動が始まった春ぐらいから、取引先の応対に追われていた。

 

電話が鳴りっぱなしで、

「工場は大丈夫です。変わらず生産しています!」

 

勤めていた会社は、ダイエーと中国天津市との貿易商社で、最近ツイッターで弁護士さんが立ち上げた #悲しみで作られた服は着たくない というハッシュタグを見かけたが、私が担当していたのはまさにそういう服の輸入である。

 

全面に組まなくパッチワークのあるショートパンツが1ドル。

こども綿ボーディングパンツが1.2ドル。

 

当時、まだ服は国産が大半で、子供のズボンでも3000円以下のものは少なかった。国内生産で原価が1000円ぐらいである。

それが中国でつくると120円で作れ、日本にもってきても150円ぐらい。1500円で飛ぶように売れる。

 

材料費込み120円でズボンを製造する縫製員の給料は30元(約500円ぐらい)

工場の環境は劣悪で、夏でもクーラーはない。綿くずのホコリがもうもう立ち上がり、そのへんの布切れを顔に巻きマスクにしている。

 

工場で働く人々は周辺の黄色い大地と一体化した、レンガ作りの掘っ建て小屋のような(と、日本人には見えた)家に住んでいた。

 

だけど当時の彼女たちは、悲しみというよりはモリモリご飯を食べていた。

工場は改革開放で生まれた地元が経営する郷鎮工場であり、経営がうまくいけば自分たちの給料も上がる……、可能性がある。

現在の状況にかかわらず、人を明るくするのは希望である。

(当時、彼女たちにあった“希望”は、今の広州のスマホ工場で働く人々にはない)。

 

卑屈だった

昔の在日中国人たち

 

その一方、当時ホワイトカラーで日本に来る中国人たちは、一様に卑屈だった。基本的には当時の中国トップクラスの人々であるが、貧しかったからである。この卑屈さがなくなっただけでも、中国が経済発展して良かったな、と私は思う。

私は卑屈な人を見るのが嫌いである。

 

今までになかった安い服は日本人に喜ばれ、会社は大儲けしていた。

当時、ダイエーの広報誌に出た私は、「安くて品質のいい服を提供することは、社会の役に立つと思ってがんばります!」と答えている。

 

生産は取引先が心配するようなことはなかった。

今でこそ北京―天津は高速鉄道で30分、高速道路で二時間弱だが、当時は車でも半日かかり、隣の都市なのに情報は届かない。

心配して出張した社員は、やることがなくて天津動物園に取引先を連れて行き、日本からの「大丈夫か!」の声に「パンダのうんこは丸いです」と答えて顰蹙をかっていた。

 

天津は日本でいうと名古屋ぐらいの感じの都会である。そこでその程度で、そもそも運動が終わった段階でも13億のどれだけが事件について知っていたのか疑問である。

89年の天安門事件は世界中が知っており、中国の中の人の多くは、知らない。まるで東日本大震災の初期の原発の爆発映像のようなものだった。

 

大学生たちは特権階級の子息が多かった。

少数民族ウーアルカイシも、現地では現地支配の漢族エリートの小学校に通っていた。植民地の支配者側の親の家庭に育ち、彼らが反発した中央幹部の腐敗にしろ要求した民主にしろ、当時のごく普通の人はそういう“情報”に接することもない。

布切れを口に巻いて、一日14時間ミシンを踏む。

頑張ったらお金が増える。

 

まだ銃を向けられた

89年7月の北京

 

虐殺が終わったあとは、会社にいくと中国人社員たちが興奮して騒いでいた。

今まで政治発言を抑制していた中国人たちの変貌ぶりに驚いた。

引き続き取引先の対応に追われた。

 

翌月に中国に出張した。北京はまだ煙の匂いがするようだった。

街頭で兵士たちが三人で背中を合わせて監視しており、水平に銃を向けられた。

 

立ち始めたばかりの高層ビルのガラスが割れているのもたくさん見た。あちこちで隠れていた学生が捕まっているという。外国人ジャーナリストの取材に答えた中国人は全国に指名手配された。

 

当時、私がひっかかったのは、学生たちの逃げ方である。

 

特権階級の子供たちが正義感で運動を起こした。郊外の工場の、布きれを口に巻いて14時間ミシンを掛ける女子より、ちょっと上の社会階層の人々が参加した。

 

カタストロフィが起きた。全員は逃げられない。

 

ノアの方舟に乗るのは誰か。

 

もう一度選別が行われた。当時の中国では(今も)逃げるには外国に行くしかなく、そして運動のエリートが逃げたし逃された。王丹は逃げなかった。他に逃げなかった人もいる。

 

虐殺された数はわからないけれど、聞いた中では1100人ぐらいというのが正確ではないかと思う。

責めるわけではまったくないが、元学生指導者たちは、当時、逃げようが逃げまいが、一生引きずっていくのだろう。

 

誤解を恐れずに言えば、あのときにもし強硬手段を取らなかったら、中国は分裂していたと思う(もちろん、虐殺を支持肯定しているわけではない)。

庶民に情報は伝わらないが、北京へ学生は中国全土から来ており、連動する運動は全土あちこちで起こり始めていた。広いから火の手があちこちで起こるととたんに収拾できなくなる。

分裂したほうが民主化する、と私も思う。が、当時だと分裂すれば一部はまた外国の植民地になっただろう。是非は別として貧しい中国の唯一の拠り所であった大国を守るために強硬手段に出たと考える。まあどのみち植民地には民主はない。

 

何も殺さなくても、というのは中国人と、当時の中国の貧しさを知らないセリフである。

 

あれから30年たった。中国の政治のトップ層も汚職はする。

するなんてもんじゃない汚職はするが日本のトップ層より、はるかに“有能”で、もっと“愛国”である。もちろん“国民”を愛してはいないが。

 

6月3日夜。広場を追い出された後も、明らかに観光客ではない人々が広場の横から離れず眺めていた。車椅子の老人たちもいた。

夜8時半。まだ空いている毛沢東の画があるエリアには、入場のため長蛇の列ができていた。地元の人々が多い。

 

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2019年6月3日夜8時半。天安門広場故宮側エリア(毛沢東肖像画のある方)への入場に長蛇の列をつくる人々

その後、会社を辞め本を出し中国へ来た。北京に住んで18年目になる。私は北京の人々の話は書けないけれど、できるかぎりそばにいたいと思っている。

 

 #虐殺が天安門広場であったかどうかは諸説ありますが、北京の人々の話ではあった説が有力なので、こうしました。

 

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